アニメ・コミック

2012年8月24日 (金)

繕い裁つ人

私達が結婚したとき、お互い本ばかりたくさん持っていたので、新居のアパートは地区30年のボロアパートだけど、押入れが計4つもあるのが借りる決め手だった。それで、うちの旦那の本は7割がたマンガ。

手塚治虫にあこがれて、大学時代はマン研に入り、漫画家になりたかったみたいだけど、夢破れ、でも少し近い美術教師になった。で、そのころから集めたコミックが段ボール箱20箱くらいある。

今でも時々買ってくるから増え続けてる。だからせめて私は買うまいと思ってるんだけど、おもしろそうだと、つい買ってしまう。このコミックもそうだった。「繕い裁つ人」(池辺 葵、講談社)読んでて、職人っていいなあ・・とつくづく思う。憧れる。

一つのことを極めて、長く地道にやり続けなければ決して得られないものを得る喜び。そして到る真実。

職人にはそんなものがあるような気がする。でも、現実は生活との戦いなんだけどね。

不思議なことに、私の亡くなった母は洋裁師。義母も洋裁師だった。

私の母は16歳くらいの時、元町にあるアメリカ人の奥さんが経営する洋裁店で働いていた。裁ちばさみでよく叩かれたそうだ。でもちっともつらくなかった。気の強い奥さんだったけど、心はとても親切な人で、本牧あたりのお客さんの家に一緒によく連れて行ってくれて、ケーキやみたこともないきれいなお菓子をくれたそうだ。

たった1枚残っている、母の若いころの写真は、自分で作った大きな花柄のワンピースを着て、自転車の横で微笑んでいる姿だった。

23歳で結婚して、私と、1歳違いの弟が生まれるころまでは、順調だったみたいだが、使用人にお金を持ち逃げされてから、貧乏のどん底。

私が物心ついた時からはずっと貧乏だった。父が大工になってやっと人心地ついたかと思ったとたん、石油ショックで仕事は激減。同僚は次々にタクシーの運転手とか転職していくのに、家の父はいつまでも、働かないで家にいた。

そのころには子どもは4人になっていた。それで、母は洋裁の内職をはじめた。店も看板もない、6畳と4畳半のバラックで、近所の女子寮のお姉さん相手に、ワンピースやスーツを作った。

母に「OO子、今日は徹夜でスーツを仕上げなくちゃいけないから、頼むよ」と言われると、私は、お米を研いで、ごはんを炊き、すいとんか、カレーか、豚汁を作る。

そして3人の弟をつれて、お風呂屋さんに行く。一番下の弟を洗い終える頃にはくたくたで、自分の体は満足に洗う元気もなかった。でも

帰ると、人台にできたばかりのきれいな服が着せられてあって、まるで自分が仕上げたかのように満足したものだった。

それから、よく近所の手芸屋さんにくるみボタンを作りに行かされた。布の切れはしと大きさを書いた紙を握りしめて、そのお店に行くと奥さんが、もうわかってるというように黙って布と紙切れを受け取り、丸い筒のようなものと木槌を出して、とんとんと叩くと、魔法のようにきれいなボタンができてくる。これは何度見ても飽きなかった。

高校生の時、青い花柄のワンピースを作ってくれたことを覚えている。襟ぐりがひろくあけてあって、袖は大きなちょうちん袖で、ウエストにはたくさんのキャザーがとってあり、裾は、とも布で作った、フリルがついていた。

今でも、それを着て出かけた時のことをはっきりと覚えている。嬉しくて、嬉しくて、自分がすごくきれいになった気がした。

義母(バータス)は今85歳だが、結構いい家のお嬢さんだったようだ。昭和の初めのころの青森で付属の幼稚園に通っていたのだから。でも、義母が4年生のころに母親が病死する。うんと年の離れた兄のお嫁さんも子どもを産んですぐ亡くなると、母はその兄の子どもを育てる役目を負わされる。だが、義母が24歳の時兄が再婚。義母は家を出ざるを得なくなり、紳士服地の卸問屋で働くことになる。そこで旦那のお父さんと知り合い恋に落ちたが、そのとき、お父さんには家庭が・・・

でももう義母のお腹のなかには旦那がいた。お父さんは奥さんと別れて義母と一緒になるつもりだったが、それを知った奥さんが絶対離婚しないといいだした。それを知った義母の父親、つまりうちの旦那のおじいちゃんは「人の不幸の上に自分の幸せを築くのはよくない」といったので結婚しなかった。といつか義母は言っていたが、義母の性格からして、いつまでも、どろどろしてたくない!さっさと前に進みたいと思ったんじゃないかなと思う。

それで、生活のために、自分の持っていた服をほのいで、型紙に起こして同じ服をたくさん作って売った。そのうちそれが評判になって、洋裁教室を2軒も持つようになり、最後は紳士服の職人をやとってテーラーを始める。県庁の職員がたくさん背広を作りに来てくれて、店は繁盛した。

コロナを買って日本橋まで生地の買い付けに行った。(青森で女の人で一番最初に自動車の免許とったんだよ:と義母曰く)家も新築して使用人もふえた。でも、旦那が就職して横浜にくると、専業主婦やってみたい、といって店を全部処分して、お見合いをして結婚。

35年主婦して去年、再婚したじいちゃんが死んでから認知症になって一人で暮らせなくなって家にきたというわけ。

青森の家を整理しに行ったとき、お義母さんが作ったと思われる、自分の服がいっぱいあった。それはもう古くてやぼったいものだったが、生地はいいものを使っているので、捨てられず、いくつかは持ってきた。でももう着る機会もないなあと思う。

二人とも、はからずも生活のために服を作っていたんだけど、でも、作ってるときは楽しかったんじゃないかなと思う。自分の手から何かを作り出し、それを喜んでもらえる。きっとそれは最後の最後のほんのちょっとの時間なんだろうけど、またがんばろうという力を充分与えるものだったんだと思う。